かけあし歌謡史


60年代以降の歌謡史を駆け足で見てみたいと思います。
それと文中に登場するアーティストたちへのリンクは徐々に増やしていきますので了承ください。

60年代〜70年代

GSバンド

Keyboys
(代表曲)「ヘビョヌロガヨ(海辺にいこう)

・He5(68年結成)後にメンバーチェンジを経てHe6
(代表曲)「チョウォン(草原)」「クムクヌンサラン(夢見る愛)」

米軍放送AFKNから流れるアメリカン・ロックに魅了されたたくさんの若者たちがギターを手にバンドを組んだ。
米軍基地の舞台で腕を磨いた彼らだが発表曲は外国曲のカバーばかり。

申重鉉(シン・ジュンヒョン)
黎明期の韓国大衆音楽を語るときに外せない人物。
63年に結成したADD4の発表した「ピッソゲヨイン(雨の中の女性)」「コッピハンジャン(コーヒー一杯)」などは韓国初の創作ロックだといわれる。

フォーク

明洞にあった音楽鑑賞室「セシボン」の舞台が歌手たちの登竜門となっていた。
そして後発で同じく明洞在の文化空間「チョンゲグリ」も同様だった。

・Twinfolio[宋昌植(ソン・チャンシク)、尹亨柱(ユン・ヒョンジュ)の二人によるフォークデュオ]68年活動開始。
美しいハーモニーで人気を得るがやはり外国曲のカバー。

・韓大洙(ハン・デス)
・金珉基(キム・ミンギ)
シンガーソングライターのはしり。彼ら以後、多くのシンガーソングライターが現れるようになる。

「大麻ショック」「歌謡浄化運動」「アマチュアバンド」

75年〜76年にかけて政府は大麻を吸引したとして多くの音楽家の活動を禁止した。その数100人余。
放送活動やライブ活動といった一切の音楽活動を禁止。(維新憲法緊急措置9号により)更に社会の風紀を乱すとして指定した歌手の活動も禁じた。
指定されたアーティストの中には申重鉉(シン・ジュンヒョン)尹亨柱(ユン・ヒョンジュ)李章熙(イ・ジャンヒ)趙容弼(チョ・ヨンピル)といった名が。盛上がりを見せていた音楽会は一気に沈滞してしまう。
この措置は時の大統領朴正煕(パク・チョンヒ)が暗殺された翌80年、新政権が廃止するまで続いた。

エアポケットに入ったような状態にあった大衆音楽界の隙間を埋めたのは各種音楽祭から出てきた大学生たちのアマチュア・バンド郡だった。
中でも金昌完(キム・チャンワン)チャンフンチャンイクの三兄弟によるバンド산울림(サヌリム)はその実験的なサウンドで一世を風靡し80年代に続く大学歌謡祭出身バンドへとたすきを渡す役目をはたした。

80年代

大学歌謡祭出身バンドが活躍

・송골매(ソンゴルメ)
・작은거인(チャグンコイン)
・マグマ
벗님들(ボンニムドゥル)
80年代を代表する人気バンドとなった송골매(ソンゴルメ)や韓国型AORと呼ばれた벗님들(ボンニムドゥル)を登場させた歌謡祭。そこからは現在、TVやラジオMCとしても活躍するペ・チョルスや後に映画音楽でも名を馳せることになる金秀哲(キム・スチョル)など多くの才能を輩出した。
さらに(シム・スボム)(イ・スニ)ら実力派女性ボーカリストも歌謡祭出身であることも特筆すべきだ。

アンダーグラウンド

70年代、金珉基(キム・ミンギ)チョ・ドンジン(趙東振)などの影響を受けた若者たちはテレビやラジオなどへの露出にこだわらずライブハウスを主戦場として活動していた。

・따로또같이(タロトカッチ)→稀代のボーカリスト、전인권(チョン・イングォン)が参加。時期を同じくしてアンダーグラウンドも活性化。84年の2ndアルバム発表を基に本格的に活動を開始。

・들국화(トゥルグックァ)
85年に1stアルバム発表。これは2007年に京郷新聞が選定する「韓国大衆音楽100大名盤」で1位に選ばれた。
2ndアルバムの不評やメンバー間の不和などにより解散する(何度か再結成はしている)が彼らの後発バンドに与えた影響は計り知れない。

歌謡界

歌謡浄化運動の波を乗り越えた趙容弼(チョ・ヨンピル)は80年代に入り1枚のレコードにロック、民謡、ポップス、バラードと様々なジャンルを取り入れその全てを消化、歌王の名にふさわしい活躍を見せた。80年はチョ・ヨンピルの時代だという評価も少なくない。

バラードの李文世(イ・ムンセ)、POPの柳在夏(ユ・ジェハ)、トロットの周炫美(チュ・ヒョンミ)といった新星が登場した。

90年代

新しい才能の胎動

歌謡からK-POPへと大衆音楽会が大きく舵を切るきっかけとなった10年。

・ソテジワアイドゥル
ダンスミュージックを基本にラップやサンプリングを導入、メタルや国楽を融合させるなど新しいスタイルを確立。
それまで外国製POPミュージックを聴いていた人々の耳を国内へと傾けさせた。以後影響をうけたダンスグループが多数出現、その中にはH.O.TやS.E.Sなどアイドル第一世代も数えられる。

・金健模(キム・ゴンモ)
3rdアルバムが330万枚販売するという驚異的なヒット。当時、横行していたコピーCD、テープを含めると600万枚を超えていたのではないかとの説もある。
また、彼をプロデュースした김창환(キム・チャンファン)はバラードの皇帝申昇勳(シン・スンフン)、ダンスデュオCLON、現在では女優としても名高い엄정화(オム・ジョンファ)などもプロデュース。ヒットを飛ばし彼とアーティストたちはキム・チャンファン師団との別名でその名を轟かせていた

・015Bと申海澈(シン・ヘチョル)
88年、MBC大学歌謡祭で優勝したバンド「無限軌道」のメンバーチョ・ヒョンゴンチョ・ヒョンチャンチョン・ソクウォンとチョン・ソクウォンの兄チャン・ホイルが1990年に015Bを結成。
このグループには固定したボーカルがおらずアルバムごとにゲストボーカルを迎えるというシステムを導入。今ではよく見られるようになったこの形態は彼らの成功があったからだと言われている。

一方、無限軌道のリードボーカル、シン・ヘチョルは90年にソロデビュー。
2枚のアルバム発表後、ロックバンドN.ex.Tを結成。音楽活動のみならずその優れた弁舌で積極的に社会運動や政治活動にも参加。
ラジオDJとしても名を馳せ90年以降の韓国カルチャーに多大な影響を与えた。

Indies

90年代初頭、フォークシンガーで詩人、運動家の鄭泰春(チョン・テチュン)が裁判で「音盤の事前審議は違憲である」との判決を勝ち取り事前審議制度が廃止。
それにより多くのアーティストがその恩恵をうけ、90年代中盤以降の大衆音楽の発展、多様化に拍車がかかった。

90年代後半ソウルの弘益大前にインディーズバンドが集まり活動が活性化。
大衆的なものから実験的なものまで多彩な音楽がカオスのように展開されたがそれらは嗜好の多様化したリスナーたちに受け入れられ大きなムーブメントへと展開していった。
・CryingNuts
・紫雨林(チャウリム)
・Rollercoaster

2000年代

アイドル製造工場

SM EntertainmentYG EntertainmentJYP Entertainment Corporationなどのプロダクションがオーディション、レッスンなどを通してデビューさせる体系的なシステムを構築。現在のKPOPの隆盛へと導いた。

SMエンターテインメント

歌手やテレビMCなどの活動をしていた李秀滿(イ・スマン)が設立。
最初のアーティストは현진영(ヒョン・ジニョン)。その後、H.O.TS.E.S神話BoA,東方神起Super Junior少女時代shineef(x),EXOといったそうそうたるメンバーをデビューさせた。
もう一つSMの功績をあげるならS.E.S、神話といったグループの日本進出へのチャレンジがある。
けっしてかんばしい結果を得たとは言えないがそのノウハウの蓄積はその後のアーティストたちへの大きな助けになったのではないかと考える。

YGエンターテインメント

ソテジワアイドゥルのメンバーだった梁鉉錫(ヤン・ヒョンソク)が設立。
最初のアーティストはKeepsix
97年のJINUSEON、98年の1TYMEと大きな成功を収めた。
その後もSE7ENLEXYフィソンBIGMAMABIG BANG2NE1らを輩出。ブラックミュージックを意識した楽曲作りが特徴。
YG JAPANを設立しBIG BANGが日本でデビューした。

JYPエンターテイメント

90年代韓国を代表するパフォーマー朴軫永(パク・ジニョン)が設立。
最初のアーティストはJINJU
他にgodRAIN朴志胤(パク・ジユン)Wondergirls2AMmissAらを輩出。

オーディション番組

アーティストへの登竜門として60年代の「米8軍」、70年代の「セシボン」「チョンゲグリ」。
80年代の大学歌謡祭、川辺歌謡祭などの各種歌謡祭、90年代の各プロダクションのオーディションなどがあった。
2010年代に入りテレビのオーディション番組がそこに加わった。

Mnet「SuperStarK」

・허각(ホガク)
・Ulala Session
・Busker Busker
・ロイ・キム
・DICKPUNKS
・キム・ピル

SBS「K-POP STAR」

・楽童musician
・15&
・李遐怡(イ・ハイ)

2016年時点で私が把握してるのはこんな感じ。。
激動の時代をくぐり抜けてきたからこそ今のK-POPが有ると思います。

これからも時代の波とともに色々なアーティストが大衆をなぐさめ、励ましてくれることでしょうね。